『結局、ひとの意見はどうでもいい』臨済宗の禅語から考えた話

リバ邸Books住人のYOです。

突然ですが、世の中には路上で生きていらっしゃる方いるじゃないですか。

新宿とかに行くともう街中に同化して、なんの違和感もなくとけこんでいるあの方たちは、結構かっこいいと思うんです。そこには美しさすら感じるくらいの清々しさがあります。

大阪のあいりん地区では、地球を庭として生きるひとたちがいて、日本で唯一暴動が起こるところでそこには、力強さがあります。

タイでは、路上にパンツ一丁で究極のエコ活動家として昼間から寝ていらっしゃる方達がいて、お金を持っている方からお金をもらうというエコシステムで必要最小限で清貧家の一面もかい間見せます。

この人たちに共通していることは、ひとからどうこう見られることを気にされていないということです。ここまで突き詰める必要はありませんが、見習うところはあるなと思っています。ひとを思いやらないで利己的に生きるというよりかは、自分がどれだけ主体的に決定権を自分自身にあるようにすること、ひとの意見を気にしないことが有効になると思うのです。

禅語から生き方を考える

臨済宗の禅語に以下の言葉があります。

随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり

大体の意味に訳すと

『もっと他者に流されずに、自分自身の考えで自分自身を主人として生きようぜ』
的なことです。まさに今後必要になって行くことだと思います。

(さらに詳しく知りたい方はこちらへ)

いまサラリーマンとして生きている人で、惰性で会社に行っていらっしゃる方たちは多くいらっしゃいますが、もっと自由にもっと自分がやりたいことに向き合って生きた方がいいしもっと楽しく生きていけると思うんです。

公務員をやめて今や金も退職金しか残っていなくてあと現金は40万円しかありません。
資産といえば、バイク(ヤマハセロー250)、自転車、iphonex macbookair カメラ2台。
しかありませんが、本当にやめてよかったと思います。惰性でこのまま定年まで働いて、ハゲ散らかして人生を浪費せずにすんだのですから。主体的に生きていけるということは、自分で決めることが得意ではなく苦しかったり辛かったりもしますが、毎日が生き生きとしていて本当に生きているなと実感できてたりもします。

人生これからなので、楽しく生きつつ、やりたいことやっていこうと思っています。とりあえず、リベラルアーツを学ぶこととゲストハウス、シェアハウスをやって見たいと思っています。

今月は、こんな感じです。